(前編)日本のエネルギーインフラを支える東京燃料林産【遠藤日雄の新春対論】

(前編)日本のエネルギーインフラを支える東京燃料林産【遠藤日雄の新春対論】

人口減などで住宅市場が縮小し、建築用材の需要には陰りがみえる。その一方で、森林・木材をエネルギー源として利用する流れが強まっている。2009(平成21)年にFIT(再生可能エネルギーの固定価格買取制度)*1が創設されて以降、木質バイオマス発電所が全国各地で陸続と建設され、燃料用材の需要が右肩上がりで伸び続けている*2。だが、先人が血と汗を流して築き上げてきた森林・木材を無思想・無批判に発電用燃料に投じていていいのか。心底からの疑問と怒りを高めた遠藤日雄・NPO法人活木活木(いきいき)森ネットワーク理事長は、東京燃料林産(株)(東京都千代田区神田錦町、廣瀬直之・代表取締役社長)*3の“現在地”を聞くことにした。同社は、昨年(2023(令和5)年)、創業80周年を迎えた老舗企業で、灯油・軽油・重油やLPガスの供給をはじめ、カーリース、レンタカー、車検、車両整備など幅広いビジネスを展開している。その原点にあるのは木炭と薪の販売であり、今でもメイン事業に位置づけている。エネルギー需要の変遷に応じながら、森林・木材の有効利用を貫徹し続けている同社の核心には何があるのか。廣瀬社長の口から日本の進むべき道が語られる。

起源は東京都燃料配給統制組合、エネルギー供給の本流歩む

鹿児島県霧島市の自宅を早朝に出た遠藤理事長は、午後2時に東京燃料林産の本社ビル(東ネンビル)に足を踏み入れた。東京メトロ竹橋駅から徒歩3分の一等地にある自社ビルだ。その3階にある会議室で、遠藤理事長は廣瀬社長と向き合った。

遠藤理事長

私は1949(昭和24)年生まれで、幼少の頃は母が料理をするのに木炭を使っていた記憶が鮮明にある。風呂を沸すには薪を燃やしていた。それが昭和30年代の燃料革命でエネルギー源がガスや電気に転換し、薪炭生産が崩壊してしまった。広葉樹林が伐採されて製紙用チップになり、その後にスギやヒノキが植えられてきた。こうした経緯を目の当たりにしてきたことを踏まえた上で、日本の森林・木材をエネルギー源としてどう利活用していくかを考えたい。まず議論の前提として、東京燃料林産の成り立ちを教えて欲しい。

廣瀬直之・東京燃料林産社長
廣瀬社長

弊社のルーツは、戦時下の1943(昭和18)年10月30日に設立された東京都燃料配給統制組合になる。東京市の頃から各地区で配給統制組合ができていたが、いよいよ物資が不足してきたので、すべての民間企業の営業を停止して統制組合に一本化し、個々の商店などは配給所に切り替わった。

遠藤

統制組合ができる前も木炭や薪を取り扱っていたのか。

廣瀬

広瀬商店として営業を始めたのは、1880(明治13)年と伝えられているが、戦災で当時の大福帳などは焼失してしまったので、正確にいつから木炭や薪を取り扱い始めたのかはわからない。ただ、事業は順調に発展し、統制組合の初代理事長には私の祖父である廣瀬與兵衛が選任された。

国民生活を支えるエネルギーが化石由来燃料に切り替わった

遠藤

今の話だけでも、東京燃料林産が木炭・薪問屋の本流を歩んできたことがよくわかる。戦後の推移も聞きたい。

廣瀬

1948(昭和23)年頃になってようやく物資が足りてくるようになり、配給の時代は終わって株式会社の東京燃料林産として業務を始めた。当初は、木炭と薪の取り扱いだけだった。転機となったのは、1957(昭和32)年に出光興産(株)(東京都千代田区)と特約販売店契約を結び、石油燃料の販売を始めたことだ。1959(昭和34)年にはプロパンガスと呼ばれるLPガスの販売営業許可を受けた。

遠藤

戦時下に木炭と薪が統制物資に指定されたのは、国民生活の根底を支えていたことを物語る。

廣瀬

家庭で熱エネルギーを得る手段は木炭と薪しかなく、軍事物資でもあった。薪の需給調整規則が廃止されたのは1949(昭和24)年8月、翌50(昭和25)年3月には木炭の需給調整規則も廃止されて統制全面解除になり、弊社も燃料総合卸売業者となった。

遠藤

そしてエネルギー源が化石燃料由来に切り替わったわけか。

廣瀬

軍事物資だった石油燃料が個人にも行き渡る時代になったのは大きな変化だった。弊社も顧客ニーズに基づいて、灯油やLPガスから派生してガソリンスタンド、カーリース、レンタカー、車検サービスなども手がけるようになり、現在に至っている。

遠藤日雄・NPO法人活木活木森ネットワーク理事長

コロナでも炭と薪にニーズ、炭火焼き、ピザ、キャンプなど

遠藤

総論的にみると木炭と薪はマイナーな存在になったといえるが、プロの眼からはどう映っているのか。

木炭の生産量の推移
販売向け薪の生産量と価格の推移
廣瀬

俯瞰的にみると、木炭の生産量は戦争直後の約270万tから2万tを切るまでに落ち込んでいる。薪の販売向け生産量も1975(昭和50)年は20万m3を超えていたが、現状は5万m3強の水準で推移している。

遠藤

その数字からすると、お先真っ暗だが。

廣瀬

ただ、木炭と薪には根強いニーズがあり、急に引き合いが増えることがある。
 
木炭については、1980年代後半から1990年代初頭のバブル期に炭火焼き料理が人気を集めて取扱量が跳ね上がった。

薪の需要は7年おきに高まると言われている
遠藤

薪もそうなのか。

廣瀬

薪については、7年おきにブームが来ると言われている。
 
昭和50年代の終わりまで銭湯などの熱源はもっぱら薪で、燃焼効率がよくリーズナブルだった。それが重油ボイラーに代替されていったのだが、1985(昭和60)年頃に外国人のマンション取得が盛んになり、暖炉がたくさんつくられて、薪の引き合いも強まった。
 
バブル期には、薪で焼いたピザの方が美味しいという評判が広まって、本格的なピザ屋は薪を使うことが当たり前になった。ピザ屋は暖簾分けで店舗を増やすことが多く、新しいピザ屋ができるたびにご紹介いただいて、薪の販売先が広がった。

遠藤

その後にも薪ブームが来たのか。

廣瀬

2000年頃からは薪ストーブが売れるようになった。また、芸能人がYouTubeで配信した「ぼっちキャンプ」がヒットした影響なのか、キャンプ用の薪需要が増大した。

遠藤

飲食関係はコロナ禍で大きなダメージを受けた。薪の売れ行きも落ち込んだのではないか。

廣瀬

ピザは比較的テイクアウトしやすいので、コロナ禍でも薪の売り上げはそれほど減らなかった。それにキャンプ用の薪需要が加わって、弊社の薪の売り上げは110%くらい伸びた。
 
コロナ禍は一段落し、キャンプブームもピークは過ぎたが、薪の引き合いは堅調だ。最近のサウナブームでも熱源としての薪が見直されている。
 
以前は、薪の販売量は年間1万5,000束程度だったが、 今では月に1万束以上売れるようになっており、年間では10万束を超えるボリュームになっている。(後編につづく)

(2023年12月7日取材)

(トップ画像=東京燃料林産の本社ビル(東ネンビル))

『林政ニュース』編集部

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