笠松町で生まれ、木曽三川と源流の森林とともに暮らしてきた
─岐阜県の森林率は約8割で、高知県に次いで全国2位。東濃ヒノキなどの銘柄材もある林業県として知られています。長く暮らしてきて実感はありますか。
杉山 僕は、県南部の木曽川沿いにある笠松町で生まれた。笠松町は交通の要衝として栄え、明治初期には県庁が置かれたこともあった。実家は、味噌や醤油をつくり、小売りもやっていた。目の前に川があり、裏山でよく遊んだ。森林や川は自分の家のようなもので、木曽川、長良川、揖斐川の木曽三川とその源流にある森林とともに暮らしてきた。

─森林と生活が密接に結びついていたのですね。
杉山 19555(昭和30)年に制定された「岐阜県民の歌」には、「岐阜は木の国、山の国」という歌詞がある。人里から少し離れるとオール山であり、森林というのは絶対に大事にしないといけないと子供の頃から親に言われ、学校でも教わってきた。
昨年(2025(令和7)年)6月には、伊勢神宮の式年遷宮で使われる木曽ヒノキを伐り出す「裏木曽御用材伐採式」が中津川市内で行われた。このような名誉ある伝統的な行事が継続されていることも岐阜県の特色だろう。
陣頭指揮で発行を支えてきた『岐阜新聞』が創刊5万号を達成
─杉山さんが長く社長をつとめ発行を続けてきた『岐阜新聞』は、昨年12月5日付けで通算5万号に達しました。1881(明治14)年に『岐阜日日新聞』として創刊して以降、戦争や災害など様々な難事を乗り越えてきたわけですが、どのように感じていますか。
杉山 おかげさまで、地方の老舗新聞社として、多くの読者に支えられて今日まで来ることができた。これからも地域密着の情報を発信し続けていきたい。

─杉山さんが岐阜新聞社(当時は岐阜タイムス社)に入社したのは、1954(昭和29)年でした。高度成長期の幕開けとなった「神武景気」が始まった年です。
杉山 経済成長とともに国民の生活がどんどん変わっていく中で新聞業界に入った。1つ年上にナベツネさん(元(株)読売新聞社社長の渡辺恒雄氏、故人)がいて、親しく付き合わせていただいた。
1926(大正15・昭和元)年生まれのナベツネさんは、一高(旧制の第1高等学校)から東京帝国大学(現東京大学)に進み、学徒出陣によって陸軍に配属され、過酷な仕打ちを受けた。その経験から軍国主義を嫌い、終戦後は日本共産党に在籍していたこともある。だが、上層部と対立して追い出され、同じ一高・東京帝大仲間の氏家齊一郎さん(元日本テレビ放送網(株)社長、故人)と有楽町を歩いていて読売新聞社の看板を見つけて入社したというエピソードをよく聞かされた。とにかくナベツネさんは頭がよかった。
豊かな森林を活かす人を育てれば、「林業は成長産業になれる」
─今年は「昭和100年」です。日本はどのように変わってきたのでしょうか。
杉山 昭和30年代前半の首都・東京は、まだ汚かった。出張で行って、3日くらい過ごして髪を洗うと白い洗面器がねずみ色になった。それくらい空気が汚れていた。岐阜県に帰ると本当に空気がきれいで美味しいと感じたものだ。
それから比べると、今は東京も他の都市も清潔できれいになった。総じて生活も豊かになったし、僕個人としてもいい時代を生きてきたと思っている。
─これからの林業県・岐阜と日本の森林・林業のあり方については、どう見ていますか。
杉山 豊かな森林があるということは、何物にも代えがたい大きな財産であり、それを活かせる人を育てることが益々重要になるだろう。
僕は、岐阜県立森林文化アカデミーの学長をされている涌井史郎さんとも親しくさせてもらっている。涌井さんは、本当に学識が高く、しかもよく勉強されている。このような人が森林・林業問題に本腰を入れて取り組んでいることは実に心強い。
また、環境問題の高まりを背景に、異業種の方々が森林・林業の分野に入ってきていることにも注目すべきだ。県内でも羽島市に本社を置く健康食品メーカーの(株)日健総本社が土壌藻類を活用したBSC工法を開発して森林再生事業に乗り出している*1*2。僕は、同社の創業者である田中美穂さん(故人)も現社長の森伸夫さんも旧知の仲で率直に意見交換をしているが、時代のニーズをよく読んでチャレンジを重ねている。
こうした新しい動きを受け止めて伸ばしていけば、日本の林業は間違いなく成長産業になれますよ。
(2025年12月10日・2026年2月9日取材)
(トップ画像=「林業は成長産業になれる」と語る杉山幹夫氏、画像提供:岐阜新聞社)
『林政ニュース』編集部
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